昭和に生まれて、平成に育ち、令和に熟してやがて実が落つる──。医薬分業のことを、そう表現した人がいた。
今の分業の始まりは1974年。医師の処方箋料が大幅に引き上げられ、この年は「分業元年」と呼ばれている。しかし、実際に院外処方箋の発行が著しく進んだのは平成になってからだ。日本薬剤師会の資料によると1992年の処方箋受取率(いわゆる分業率)は14%、2003年には51.6%、そして令和になり2020年には74.9%になっている。
そしてボクが薬局を始めたのは平成の初め。あの頃、ボクたちは“調剤薬局”という苗木を植えて育てることに一生懸命だった。当時、分業するとその医療機関は患者が減ると心配されていた。
そこでボクたちは、新たな処方箋発行先を求めて毎日のように医療機関に赴き、分業を知ってもらうためのプレゼンテーションをしていた。医療機関の院長向けには、分業すれば、調剤するスタッフの人件費が削減でき、薬の在庫管理や価格交渉などの業務や、期限切れによる廃棄損もなくなる。加えて薬局で薬剤師が用量や相互作用のチェックなども行うため安心──、などと説いて回っていた。
市役所の開発課でプレゼンしたこともあった。ある病院で院外処方箋発行の話が持ち上がったが、病院の周囲は市街化調整区域だった。市街化調整区域は原則、住宅や商業施設などの建築が認められない。しかし、「周辺居住者の利用に供する公益上必要なもの、または日常生活に必要な物品の販売、加工、修理等の業務を営むもの」であれば、申請すれば建築が認められるという。まさに薬局ではないか。
ボクは、医薬分業が国民のためにいかに良いものか、受診する全ての医療機関の処方箋を1つの薬局に持ってきてもらえれば薬の重複や相互作用をチェックしますよ、処方箋を薬剤師が確認することでミスによる事故を防げ、医薬品の適正使用につながりますよ、より身近な存在として薬剤師が健康上の相談に乗ることで地域における健康の維持・増進、疾病管理のレベルが高まりますよ──などと市職員相手に熱弁を振るった。思えばあの頃、ボクたちがあちこちで熱く語っていたのは、まさに今で言う、かかりつけ薬局による薬の一元管理であり、地域の健康情報拠点としての機能を果たすという薬局の役割だったのだ。
先日、厚生労働省から「薬剤師が地域で活躍するためのアクションプラン」が公表されたが、調剤業務の一部外部委託や薬剤レビューという当時なかった言葉以外は、30年前に言っていたこととそれほど大きく変わっていない。
もちろん薬局を作って利益を上げたいという気持ちもあったが、分業が国民にとっていいものになるはずと本気で信じて、語った理想を実現させるために色々やってきたつもりだ。しかし、いまだに薬局の「あり方」を厚労省主導で議論されるようでは、結局、あの頃話していたことは「絵に描いた餅」と世間の目には映っているのではないだろうか。
令和になって、熟した実は一度落ちて、新しい芽が出るのがいいのかもしれない。でも種のない実ばかりで、芽吹かないようではあまりにも寂しいではないか。昭和に植えた苗木から育った実を、もう一度芽吹かせるためにと、僕の野心が目を覚ました。(長作屋)