Aクリニックは地方都市にある内科診療所で、A院長は父親から診療所経営を引き継いだ。父の代からの古参職員たちがうまく業務を回し、患者対応を含めて比較的スムーズに運営できているとA院長は感じていた。
そうした中、近隣の内科診療所の院長が体調を崩して休診が続いたこともあり、自院に患者が流れてくるようになった。コロナ禍で事務職員1人が離職し、補充をせずに運営してきたが、A院長は患者増に対応するためには増員が必要と考えた。そこで事務職員の採用を進め、応募者の中からB子を採用。入職後のB子の新人教育は、すべて現場に任せていた。
採用から2カ月ほどたったある日、古参の事務職員であるC子が、院長に「B子のことで話があるので、時間が欲しい」と言ってきた。C子には特に役職はなく、リーダー格でもないが、言いたいことはストレートに言ってくるタイプだ。事務リーダーのD子も、C子に対しては相当気を使っているようだった。
院長が早速面談の場を設けたところ、C子は「B子を辞めさせるべきではないか」と進言してきた。そのような話が唐突に出て、院長は当惑したが、振り返ってみるとB子は他の職員とあまり馴染んでいないように思え、C子の叱責らしき声が聞こえたこともあった。
C子は続けて、院長に1枚の書面を提出した。それは、B子を辞めさせるべきと考えた根拠、つまりB子の業務上の問題点がまとめられたリポートだった。内容は具体的で、しっかりと指導をしてくれているからこそ得られる着眼点だとA院長は思った。C子は書面の内容を説明し、B子のことがストレスとなっていると語った。
A院長は後日、事務リーダーのD子を呼び出して考えを聞いたところ、B子の課題に関してC子と同様の認識を持っていることが分かった。そこでA院長は、3カ月の試用期間満了後の本採用は見送った方がよいと考え、どのように手続きを進めたらよいか、顧問の社会保険労務士に相談してみることにした。
「ご意見番」の進言を受け入れることのリスク
A院長の話を聞いた社労士は、「C子の話が真実だとしても、経営者は、そんな話を受けて安易に動いてはいけない。リーダーでもない一職員が、入ったばかりの人を辞めさせろというのは筋違いだし、そういうことを聞き入れていたら組織がおかしくなってしまう」とA院長に伝えた。
A院長が「組織がおかしくなるというのは、どういう意味か」と尋ねたところ、「リーダー以外の古参職員がご意見番のようになっている組織では、職員がリーダーではなくご意見番を頼ることになり、組織統制そのものが成り立たなくなる。職員たちが、組織のパワーバランスに気を使い、組織風土の面でもおかしくなる」とのことだった。
実際、診療所の事務部門などで古参職員の声が重視されるケースは多いが、それが価値を生じるのは実務上のことであり、人事、経営面にまで踏み込まれるのは、組織統制上、好ましくない。本人は「上から頼られている」と思っていても、周りはそう見ておらず、「リーダーでもない人の指示になぜ従わなければならないのか」とか「トップから特別視されていると思って好き勝手をしている」といった声が生じやすい。こうなると、組織の雰囲気が悪化し、ギクシャクすることも少なくないのが実態である。
安易に排除せず育てる視点を持ってもらう
また、今回のケースでは、C子に加えリーダーのD子もB子の課題を口にしていたが、そもそも、新人がうまく仕事をこなせない場合に、ベテラン職員がストレスを抱えるのは当然であり、ストレスを感じさせない新人の方が珍しいだろう。経験者の中途採用でも、人材採用は「教えて育てる」のが前提であり、わずか数カ月で排他的に扱っていたのでは、別の新人が入職した場合に同じことが繰り返されかねない。
社労士はA院長に対し、たとえ少人数の組織であっても、トップの方針や指示をリーダーに伝え、リーダーから部下に伝えていく指示命令系統を確立することが大切であると指摘。同時に、下からの意見を吸い上げる形を作ることも大切だと説明した。また、事務職員の育成にA院長が関与しなかった点については、「現場に委ねる」こと自体は悪くはないが、「職員教育への関与が薄い」という見方もできるため、A院長も含め「育成」の視点をこれまで以上に持つ必要があると説いた。
A院長は結局、試用期間満了後にB子を正職員として雇い入れた。入職に際し、B子に関する育成計画を作成。A院長とリーダーのD子との間で共有し、B子との定期面談の場を利用して、計画の進捗状況などを確認することにした。
それから数カ月が経過したAクリニックでは、院長と職員との会話が増え、B子自身も職場に溶け込んできた。リーダーのD子からのサポートを受け、古参職員C子からも仕事を色々と任せられるようになってきたとのことである。
(このコラムは、実際の事例をベースに、個人のプライバシーに配慮して一部内容を変更して掲載しています)
服部英治●はっとり えいじ氏。社会保険労務士法人名南経営および株式会社名南経営コンサルティングに所属する社会保険労務士。医療福祉専門のコンサルタントとして多数の支援実績を有する。
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