イラスト:ソリマチアキラ

 時は1990年代後半、診療所の門前の“マンツーマン薬局”を3軒立ち上げ、少しずつ会社としての形が出来上がりつつあった。

 私は、会社を安定させるために、病院の門前に薬局を開設したいと熱望していたが、当時、都会の基幹病院前は大手チェーン薬局が押さえていて、資本力が足りないわれわれ弱小薬局は手が出せなかった。

 そんな折、九州の山の中の病院が院外処方箋を出すという情報が舞い込んできた。喜び勇んで病院前の物件を押さえた。が、ここで一つ問題が生じた。薬剤師がいないのだ。薬局の立ち上げには、それなりにノウハウが必要だが、そのノウハウを持つ薬剤師を現地で雇用するのは、まず無理だ。

 そこで、当社で薬局の立ち上げに携わっていた薬剤師Oに、「行ってくれるか」と聞いてみた。「ボクが行くしかないですよね。ええですよ」と、Oは二つ返事で承諾してくれた。

 Oは、私が会社を設立する前に勤めていた製薬会社のMR(医薬情報担当者)で、私の部下だった。彼は薬剤師なので薬の知識はあるし、コミュニケーション力もそれなりにある。真面目で医師から重宝がられたが、営業成績は芳しくなかった。

 MRには、医師への押しの強さ(ただし、医師に鬱陶しいと思わせないことが大切)と、医師に思わず処方を書かせる企画力が必要だが、Oにはその力が少し足りなかったのだ。真面目に仕事をこなすOのことを、私は狙っていた。彼が製薬会社で大きな成功を得るとは思えなかったし、私は片腕となる薬剤師が欲しかった。

 当時、彼は30歳前で未婚。今なら口説ける─。そう思った私は、彼に「会社を辞めて、うちに来ないか」と持ち掛けた。ゴネたら、“トップMR”の名にかけて(私のMR時代の営業成績はすごかったのだ)、口説き落とすつもりだった。が、彼は二つ返事で「ええですよ」と言ってくれた。

 話を戻そう。九州の山の中にある薬局の立ち上げに、Oが行ってくれるという。よし、開局できる。しかしマンションを借りて、車を買って、引っ越し屋を頼んで……。うーむ、結構、費用がかさむ。試しに「O君、引っ越し代が掛かるので、車に家財道具を積んで九州まで行ってくれんか」と、冗談にも聞こえるように、なるべく軽い口調で言ってみた。

 しばしの沈黙。「いやいや、冗談や」と言いそうになったその時、Oが一言、「ええですよ」と答えてくれた。私は、大阪の港からフェリーに乗る彼を見送りにいった。洗濯機や冷蔵庫を積んだRV車から、Oは意気揚々とボクに手を振ってくれた。「よしっ、新しい地を開拓するぞ」という熱意が感じられて、ボクはOを頼もしく感じた。

 赴任地は人情あふれる街で、Oは病院の医師やスタッフ、商工会議所や青年会議所の仲間たちにとてもかわいがられたようだ。夜は飲み会、休日はゴルフに釣りにバーベキューにと、ワークライフバランスの取れた素晴らしい2年間を過ごして、大阪に戻ってきた。

 後に、当時の話題になったとき、Oがしみじみ言った。「宮崎でフェリーを降りてからの道のりが、めちゃ長かったんです」──。意気揚々として見えたけれど、不安も大きかったんだなあと、申し訳ない気持ちになった。

 こうして会社は順調に成長した。今に至るまでに、Oのように一社員としての役割を超えて、献身的に働いてくれた人が何人もいる。そうした人たちに支えられて、今があるのだとしみじみ思うこのごろである。(長作屋)