Xクリニックは、西日本の都市近郊の内科クリニックである。ある日の午後、院長は、受付のA子から退職の意思を告げられた。A子は明るくて気が利くので、患者さんからの受けも良く、クリニックにとって、なくてはならない存在だった。
満足そうに働いていたので、突然の辞意の表明は院長にとって青天の霹靂だった。翌日の昼休みにA子を呼び出し、退職の真意を尋ねてみたところ、A子は時折涙を浮かべながら理由を話し始めた。
原因となっていたのは、パートのB子の言動だった。B子はA子より年齢が上で、たまにA子が食事に誘われて行くことがあり、たわいない悩みや愚痴を話し合う仲だった。だがある時、食事をしていると、おもむろに「幸せになれる方法を教えてあげる」と言われ、とある新興宗教の勧誘をされたのだという。
A子は、自分は宗教に興味はないこと、会合に参加するつもりはないことをやんわりと伝え断ったのだが、その日以来、何度も仕事が終わった後に待ち伏せされたり、昼休みにその宗教の広報誌を渡されたりして、とても困惑しているし、そのような人とは一緒に仕事ができないと言ってきたのだった。
そういえば、以前に院長も、B子が信仰している宗教の広報誌を手渡されたことがあったが、一度断ったきり、気にも留めていなかった。院長は、他のスタッフにもヒアリングを行ったところ、何と全てのスタッフがB子から勧誘を受けていることが判明した。
「プライベートへの干渉はやめてほしい」
院長は診療終了後にB子を呼び出し、A子や他のスタッフがB子の勧誘活動に困惑しているので、職場でそのような勧誘を行うことはやめてほしい旨伝えた。すると、B子は「就業時間中にやっているわけではなく、昼休みとか終業後にプライベートで行っていることなので、注意を受けるいわれはない。好意を持っている人には幸せになってもらいたいし、そのためには入信することが近道だ」と真面目な顔で反論してきた。
院長が「そうはいっても、実際、他のスタッフが迷惑しているのだから、職場での人間関係内では自重してほしい」と重ねて言うと、「信教の自由、表現の自由があるのだから、干渉はやめてほしい」と、これもまた真っ直ぐな目で言い返してきた。
それ以降、院長が何度注意をしてもB子は勧誘をやめず、A子以外にも不満を訴えたり退職をほのめかす職員が出てきた。A子の退職が引き金となって、他のスタッフにも退職されては大変だと思った院長は、後日意を決して、「これ以上注意しても改まらないようなら、退職してもらわざるを得ない」と告げた。するとB子は、「勧誘が悪いことだとは思わないので、教団の人に相談してから返事をする。しばらく時間がほしい」と返答した。