久しぶりにS先生、M先生、N先生を訪ねた。3人はボクがMRだった頃、関西の私立大学医学部の講師だった。S先生は消化器外科、M先生は循環器科、N先生は呼吸器科と、診療科目は違うがほぼ同じ年齢で、三者三様の活躍ぶりだった。今では3人とも開業して、ボクの薬局で処方箋を受けている。
国立大出身で学問好きのS先生は、私大の講師を務めた後、母校で教授になり、退官後、63歳で開業した。長男は国立大医学部を卒業したが医師国家試験に失敗し、結局、医師になれずじまい。長女は薬剤師に。次男は私大医学部を出て無事医師になったが、心臓外科医として米国に渡ったきり。S先生が60歳をすぎて開業したのは、当時研修医だった次男が将来苦労しないように、と思ってのことだったのに、次男は日本に帰ってくる気配さえないという。
M先生は医師になるために、経済的に大変な苦労をしたらしい。そのせいか41歳で開業した。生活は質素倹約を旨とし、クリニックは極力装飾を排したシンプルなつくり。机も椅子も古い木製のもので、今も大切に使っている。M先生が開業した当時、「添付商売」という言葉があった。値引きに上乗せして、同じ薬を“添付”するという意味で、例えば「50プロ添付」といえば、1000錠買えばサンプル500錠が“添付”されることを意味した。N先生はこの“添付”が大好きだった。時代とともに添付商売は消え、M先生は院外処方に切り替えた。
そんなM先生が唯一お金を使ったのは、子どもの学費だろう。長女に医院を継承させたかったようだが、医学部受験に何度か挑戦するも合格できず、諦めざるを得なかった。長男は医師になったが、同級生と結婚して嫁の実家がある北海道で開業してしまった。M先生は体調を崩し、入退院を繰り返しながらも引退できず、今も診療を続けている。
N先生は、天才肌の呼吸器内科医。本人は大学で研究を続けたかったが、妻から「大学の給料では子ども3人を医師にすることはできない」と言われ、45歳で開業。長男は名門医学部を出て、今では母校の教授に。次男は地方の医学部を卒業し医師になり、少し前に実家に戻ってきてN先生の医院を継ぐ準備を始めている。一人娘も医師になり、子育てをしながらパート勤務で医師として働いている。はた目には順調に見えるが、当の本人は「俺は家族の犠牲になった」とボヤき続けている。
こうしてみると、3人の医師に計8人の子どもがいて、そのうち医師になったのは5人。それなのに、3人のうち事業(医院)をうまく引き継げそうなのは1人だけで、確率は3割3分3厘。野球の打者なら好成績だが、事業として考えると、何とも歩留まりが悪過ぎる。
ボクは、事業を始めた頃、大橋巨泉じゃないが50歳すぎにセミリタイヤして悠々自適の生活をするのが美しいと思っていた。ボクだけでなく、3人の医師もそう思っていたと思う。ふとテレビを見ると、天皇陛下が生前退位の意を表されたという。あちらもこちらも次の代へのバトンタッチは大問題なのだ。
ボクは、必ずしも親族に継がせようと思ってないのだが、なかなかこれぞという人材は見当たらず、生前退位は難しそうだ。大手に売却するという手もあるが、それでは社員にあまりにも申し訳ない。うまく事業承継できず走り続けるしかない社長は、かなりツラい。 (長作屋)