東日本のAクリニックは、内科系の無床診療所だ。患者数は順調に増えており、収入面の不安はないのだが、院長のA氏にとって最近気がかりなことがある。医療機関に労働基準監督署の立ち入り調査が行われ、長時間労働の是正を迫られるケースが相次いでいることだ。Aクリニックから比較的近い地域にある病院にも、労働基準監督署が入ったという話を聞いた。
院長としては、無理に仕事をさせているつもりはないのだが、長時間労働が常態化している職員が1人いて、そのことが気になっている。当の職員は、事務スタッフのB子だ。
経験が長く、仕事がとてもできるので、どうしても業務がB子に集中しがちになる。いつも「頑張ります」と前向きなことを言うので、仕事が集中することを苦に感じているのかどうか本音はよく分からないが、まさに滅私奉公型ともいえる働きぶりだ。
その影響は同僚にも及んでいる。B子がなかなか帰らないので周りの職員も仕事を切り上げにくく、無言のプレッシャーを感じてしまい、部門全体で長時間労働が慢性化。ついには、「B子さんの仕事観に付いていけません」と言って、プライベートを重視したいと考えていた事務職員が相次ぎ退職する事態となってしまった。
急きょスタッフを補充したものの、業務に不慣れなため、指導が必要だ。その役回りを担うのはおのずとB子ということになり、B子の仕事量がさらに増えるという悪循環に陥ってしまった。
A院長は「B子に任せておけば何とかなる」と考え、これまで特段の対策を講じてこなかったが、このままではさらに退職者が出かねないし、最悪の場合B子に辞められる可能性もある。最近は行政も過重労働への監視を強めており、何とかしなければと思っているが、有効な手立てを講じるには至っていない。
恒常的な人材不足の問題も相まって、長時間労働が慢性化している医療機関は少なくない。病院ではワーカホリックのように働く職員が多く見られることもあるが、そうした傾向は診療所でも一部見られる。特に、診療所の事務部門で長年働いている職員であれば、レセプト業務のみならず看護部門との調整や患者サービス向上への取り組みなど、積極的に動いてくれるので、院長としても非常に頼りになる存在となっていることが多い。
現場を熟知しているが故に周りの職員からも頼りにされ、さらに仕事が増えるという構図である。院長としては、残業代はきちんと支払っているので問題ないだろうと考えていることが一般的だが、最近こうした状況の改善を迫るような環境変化が生じ始めてきている。
その背景にあるのが、人材の職業観の変化と労働基準行政の動きだ。職業観の変化については、特に若い人を中心にガツガツ働く必要性に疑問を感じている人が増加しており、「長時間労働で働く人に付いていけない」と言って退職をしてしまうようなケースが多くの診療所で見られるようになった。
仕事よりもプライベートを重視し、独身で両親の住む自宅から通勤していると稼ぐお金に対しての特別な執着心もないことが多く、給料よりも残業のない生活や休日を重視する傾向が強まってきている。そのため、休日数が少なかったり残業が慢性的に見られる事業所には、業種を問わず人材が集まりにくくなってきており、優秀な人材を確保したくても、そもそも応募すらないといった状況に陥っているところも少なくない。