イラスト:畠中 美幸

 A診療所で勤務しているB子は、2年前、大卒者として中途採用した事務職員だ。大学進学率の上昇に伴って、医療機関の求人に応募する事務職員の中にも大卒者の割合が高まっている。B子もそんな求職者の1人だった。

 あるとき、院長は、休憩時間にスタッフたちが学生時代の話をしているのを耳にした。話の内容は卒業式に関することで、他の職員たちが色々と思い出話をしている中、B子は「大学は中退したので高校の卒業式までしか知らず、それが心残り」というようなことを言っていた。

 不審に思った院長が、採用時にB子から受領した履歴書を見てみると、大学を卒業した旨が書かれていた。実際に大卒でないとなると、問題になるのが賃金だ。A診療所では、採用時の賃金設定において大卒者と高卒者の賃金スタートラインを別に設定しており、大学中退の場合には高卒者の賃金を適用している。もしB子が大学を卒業していないのであれば、これまで賃金を過剰に支払っていたことになる。

 院長は、裏切られたような気持ちになり、徐々に怒りがこみ上げてきた。本来の支払い額との差額分を返してもらった上で、できれば辞めてもらった方がいいのではないかと考え、社会保険労務士に相談をした。

解雇できるのは「重大な場合」に限定

 社労士からの回答は、「返金を求めることは可能だが、辞めさせるのは難しいだろう」というものだった。解雇が困難な理由の1つは、既に2年間働いていて実務上の問題が生じていないこと。また、経歴詐称による解雇は「重大な場合」に限定されると解されているが、今回のケースは重大と考えるには無理があるとの話だった。

 学歴や職歴などの経歴を詐称して就職したものの、それが発覚して解雇となるケースは少なくない。ところが、様々な労働裁判例をひも解くと、重大な経歴詐称とは、事前に知っていたら採用することはなかった、あるいは同一の条件では採用しなかったようなケースに限定されることに注意が必要である。

 例えば、看護師資格がないのに有していると偽って入職するようなケースや、「大病院で看護部長の経験あり」とのことで看護部門を統括してもらうために採用したものの、実はそうした経験など全くなかった、というような場合に限られる。学歴に関しては、実際は大卒なのに高卒者枠で応募して採用された自治体職員の解雇を有効とした裁判例があるが、これは高卒者と大卒者とでは、その自治体組織でのキャリアの歩み方が異なり、応募の窓口も異なるため、大卒者であればそもそも受け付けなかったということで解雇が有効とされている。

賃金の返還は様々な角度から検討を

 今回のケースを考察してみると、(1)「大卒者だから」という理由で採用したわけではなく、仮に大学中退と分かっていたとしても過去の職歴や人間性などから採用したと考えられる、(2)採用から2年経過し、何ら不都合が生じていない──ことから、「重大な詐称」に当たるとは考えにくい、ということになる。

 一方で、賃金の差額分については別問題であって、B子自身は不当に利益を得ているので、返還を求めること自体は問題ないと考えてよい。民法ではその時効を10年としており、B子の場合は入職時点まで2年間遡って差額の返還を求めることが可能である。

 ただ、いきなり全額の返還を求めると「生活が苦しくなるので退職します」と言って退職してしまい、結局返還されないことになりかねない。また、返還を求めるとなると、採用時に卒業証明書を提出させなかった「管理上の落ち度」を考慮し、金額を相殺するかどうかを検討する必要も生じる。診療所の職員採用で卒業証明書の提出まで求めるケースは少ないのが現実ではあるが、履歴書の内容を鵜呑みにしたが故に生じた事態であることは否定できない。そのため、どの程度まで遡及し、どのように返還してもらうのかを様々な角度から慎重に検討する必要がある。

賃金設定の変更に踏み切る

 こうしたアドバイスを踏まえ、院長がB子を呼び出して履歴書の学歴詐称について問いただしたところ、あっさりと認め、涙目になって謝罪をした。本人が言うには、家庭が裕福ではなく、アルバイト漬けになって卒業できなかったとのことだった。履歴書に「中退」と書くと、その理由を色々聞かれ、「遊んでいて単位を取れなかったのだろう」と思われるのが嫌だったと打ち明けた。

 院長は、今回の件を機に「そもそも大卒者が世の中にこれだけ増えている中、大卒者と高卒者の賃金スタートラインを別にすることに、どこまで意味があるのか」と思い始めていた。そうした考えもあり、給与の差額分については返還を求めないことにした。

 そこで、今回の件は不問として扱い、賃金に見合った仕事をしてくれればよいとB子に伝えたところ、B子はそれまで以上に、院内の様々な業務に積極的に取り組むようになった。院長はその後、事務職員の賃金設定において高卒者という設定を取り払い、経験ゼロの人の初任給は、学歴に関係なく、従来の大卒者の賃金を支払う形に変更したとのことである。
(このコラムは、実際の事例をベースに、個人のプライバシーに配慮して一部内容を変更して掲載しています)

著者プロフィール
服部英治●はっとり えいじ氏。社会保険労務士法人名南経営および株式会社名南経営コンサルティングに所属する社会保険労務士。医療福祉専門のコンサルタントとして多数の支援実績を有する。