Illustration:ソリマチアキラ

 このコラムでも何度か触れているが、我が長作屋は数代続く米問屋であった。しかしそれは祖父母の代までのこと。先の戦争を経て、米問屋としての長作屋ののれんは途絶えた。

 戦後、父母は教育者となったが、その心中には「長作屋」への思いが強くあったようで、ボクは子どもの頃から何かにつけ、「お前の代で家を終わらせるな」と言われて育った。そんなこんなで、ボクの中には“家”を守る意識が強くある。

 実家の床の間には、使い古された長作屋の米問屋時代の印半纏(しるしばんてん)がお軸のように掛けられている。松葉菱に「長」の文字の入ったこの半纏を着て、祖父は多くの人たちを束ねて仕事をしていたという。ボクはこの印半纏が大好きだ。

 実家の庭には、大きな松の木が2本そそり立っていて、子どもの頃はよく登っては叱られたものだ。その2本の松の間には、ボクが植えた赤松がひょろりとある。この赤松は、中学生の頃、入っていた軟式庭球部の先輩たちに、学校の裏山に連れていかれて、しごかれたときの帰り道、「この恨み、晴らさでおくべきか」と誓った証として、山から持ち帰ったものだ。当時は、20cm位の小さな苗木だったのが、今ではボクの背丈を超している。この赤松を見ると、あのとき感じたような「今に見てろ」という思いが沸き上がってくる。

 そして今、ボクは高齢者施設の母の部屋で、そんなことを思い出している。実は、母の容体がすこぶる悪いのだ。少し前に、帯状疱疹にかかって、顔の半分以上が腫れていた。主治医曰く、口腔内から咽頭にも炎症が広がり喉を狭くしていて、唾液が気管に入り誤嚥性肺炎を起こしているという。ベッドのそばの椅子に座り、肩で息をしている姿を見ているのは苦しく重い。

 とりとめもなく祖父のことや子どもの頃のことなどを思い出しているうちに、ふと、この人が生きた証は何なのだろうかという思いが湧いた。この人は、何を残そうとして、何を残したのだろうか。

 翻ってボク自身はどうなのか、そして薬局はどうなのか。「地域の健康ステーションになる」と声を挙げ、やれ未病治療だ、健康フェアだ、健康体操にお薬相談会、健康料理教室と、かれこれ20年以上前からお題目のように言い続け、実践してきた。

 最近では、在宅にも力を入れて地域包括ケアシステムの一翼を担うべく、スタッフが頑張ってくれている。だが、ボクの薬局は、地域に何を残してきたのだろうか、この先、何を残せるのだろうか。ボクが印半纏を見て祖父に思いを馳せるように、赤松を見て心を奮い立たせるように、地域の人たちの心の中に長作屋薬局は残るのだろうか。「長作屋薬局があって良かった」「世話になった」と先々まで思ってもらえる存在になれているだろうか。

 つい先日、地域の健康コミュニティを掲げて展開してきた薬局チェーンが、大手と合併したというニュースが流れた。「Y薬局よ、お前もか」。そう寂しく思う。米屋がなくなり、酒屋も本屋も電気屋もなくなりつつある。それでもボクは、長作屋薬局を残したい。地域に何かを残したい。

 父のもとに旅立たんとする母を前に、思いを新たに。そして「あなたが生きた証しは私です」と。(長作屋)