Illustration:ソリマチアキラ

 今年、定年を迎えた本社スタッフのAくん。20年にわたって働いてくれた。ガツガツ仕事をするタイプでもなく、1つのことに地道に取り組むタイプでもない。「なんでそうなるの?」と思う仕事ぶりのこともある。しかし、用事を頼むと机に広げた書類はそっちのけでフットワーク軽く動いてくれる、実にいい奴なのだ。何より、ボクが面接してぜひ!と採用した人物だ。

 そんな思い入れもあってボクはAくんを再雇用したいと考えていた。しかしボクは言い出せずにいた。その理由は給与だ。再雇用ではこれまでと同じ給与は提示できない。高い給与を出したいのはやまやまだが、前例を作ってしまうと今後が大変だ。世間一般の再雇用の条件を調べたり、社労士にも相談して給与を決めた上で、意を決してボクは彼に話を持ち掛けた。薬剤師なら話は別だが、このご時世、定年後の就職事情は厳しい。きっと彼も受けてくれるだろうと思っていた。

 しかし、条件を提示した瞬間、彼の顔つきが変わった。明らかに怒ったような顔になったのだ。彼は「考えさせてください」と言って帰っていった。それでもきっと「働きたい」と言ってくるに違いないとボクは思っていた。しかし翌日も翌々日も音沙汰なし。3日目になってようやく連絡があり、その回答はまさかの「このお話は受けられません」だった。

 以前、飲みに行った時に彼から、子どもは既に独立しているものの、持ち家じゃないし、貯金もそれほどあるわけではないという話を聞いていただけに、ボクは本気で心配した。うちの会社をやめてどうすんのよ、と。

 そこでボクは秘策に出た。休日に彼の家を訪ねたのだ。一番いいスーツを着て、手にはバラの花束を持って。気持ちは、90年代に読売ジャイアンツの槙原寛己選手がフリーエージェント(FA)宣言した時に、バラの花束を持って残留するよう口説きに行った(と当時報じられた)長嶋茂雄監督だ。

 家に行くと、奥さんが出てきて彼は風呂に入っていると言う。夕方の6時前でとても寒かったが、ボクは待つことにした。寒空の下、社長が待つというこの状況が彼の心を動かし、きっと考え直してくれるに違いないという期待もあった。しかし、その甲斐もむなしく、彼は首を縦には振ってくれなかった。

 翌日、ボクは経理担当者と相談して、提示した金額と定年前の給与との中間程度の金額を用意して再び、彼に交渉した。こうなったらトコトンやってやる!と挑んだが、彼はあっさり「社長がそこまで言うなら……」と了承してくれた。

 結局、ボクがバラの花束を待って自宅を訪ねたことや寒い中、待っていたことではなく、給与アップが決め手だった……、というトホホな顛末(てんまつ)だ。でもまあいい。ボクは、1人の男とその家族の生活を守れたということだけで満足なのだから。

 その後、彼は水を得た魚のように頑張って働いてくれている。ボクは70歳まで働いてほしいと思っている。現状は契約社員で毎年更新が必要だが、もう少し長期の契約にできれば彼も安心して働けるだろう、なんてことも考えている。でも、そんな前例を作ったら、それこそ後が大変だ。彼と酒を飲みに行くと、つい「70歳までの長期契約に……」と言ってしまいそうだから、飲みにいかないことにしている。(長作屋)