Illustration:ソリマチアキラ

 「えっ、1週間も前に……」。ボクは電話越しに絶句してしまった。

 ボクが3軒目に作った薬局の近隣クリニックのA院長が先日、亡くなった。院長とはかれこれ40年近い付き合いになる。当時、彼は大学病院循環器内科の講師、ボクは製薬会社の担当MRだった。患者をとても大切にする先生で、「投薬」という言葉をひどく嫌って、いつも「薬を投げるとはどういうことだ」と言っていた。そのたびにボクは、「投薬」は釈迦の母親が我が子を心配して天から薬を投げ落としたという話から生まれた、ありがたい言葉なのだとどっかから聞いてきた説話を繰り返していた。

 大学病院時代、A先生は地域の基幹病院の部長クラスの医師を集めて循環器研究会を開催していた。多くの研究会の中で、最も真面目で勉強熱心で、しかも質素な会だった。当時、この手の研究会では製薬会社が1個5000~6000円の弁当を用意するのが定番だった。にもかかわらず、A先生は製薬会社からの弁当は受け取らず、参加者から会費1000円を集めて1000円の弁当を出していた。

 そろそろ助教授になると言われていた矢先の開業だった。息子2人を医師にするには勤務医の給与では難しく決意したらしいという噂が流れていた。

 クリニックは、いつも患者であふれていた。当初は院内調剤だったが、院外処方箋を出すという話が出た時には、薬局経営者がこぞって門前薬局を作りたがった。その中から、なぜか先生はボクを選んでくれた。弁当すら拒まれたくらいだから、ボクが大好きだった接待はほとんどをさせてもらえなかった。にもかかわらず「あんたとやるわ」と。いまだにその理由は謎だ。

 クリニックの隣のうどん屋の跡地を借りる手助けもしてくれた。地主の息子がやっていたうどん屋だったが、息子が若くして亡くなって以来、空いたままだった。地主は当初、「息子の思い出の建物なので貸すつもりはない」とかたくなだった。A先生が仲介をしてくれたおかげで、ボクはその場所で開局できたのだ。それがなければ、今の長作屋はないだろう。あれから20年以上がたち、2人の息子は立派に医師となり、長男は近くの病院とAクリニックを掛け持ちで診療活動にいそしんでいる。

 そのA先生が亡くなり、連絡が来たのは1週間後とはどういうことなのだろうか。どうやら先生は、「葬式は家族だけでやれ。診療は休むな」と言い続けていたらしい。その言葉通り、長男が代診して普段と同じようにふるまっていたようだ。それにしても日々処方箋を応需していたら気付くだろうに……。

 面分業が言われるようになり、近隣医療機関との関係はめっきり希薄になっている。仲良くすると癒着だ何だと言われるが、一番近くで一緒に患者を見ている処方元とは親しい間柄でいたいとボクは思っている。最近は、若いスタッフに任せっきりで処方元の医師と会う機会も減っている。そういえば、最近お会いしていないB先生は元気だろうか。娘にクリニックを譲って、もう5年ほどになる。気になってスタッフに聞くと案の定、最近、高級有料老人ホームに入居したという。

 こんなことではいけない!今年の秋は、お世話になっている処方元を順番に訪問して先生方の近況をうかがって回ろうと決意したボクだった。(長作屋)