イラスト:畠中 美幸

 東海地方の整形外科クリニックであるN医院は、地方都市の私鉄駅に近接していて、子どもから仕事帰りの会社員、お年寄りまで、幅広い年齢層の患者が来院する。

 N院長は、開業して30年というベテランで、還暦をとうに過ぎていた。厳格で曲がったことが嫌いな性格なので、時には職員とぶつかったこともあったが、それでも大過なく医院を経営してきた。職員同士が結婚したり、退職後も、子どもを連れて遊びに来たり年賀状のやり取りをするなど、それなりに職員との歴史を積み上げてきた自負を持っていた。

 ある時、30代後半のT子が医療事務の求人に応募してきた。少し陰鬱な第一印象であったが、経験者であることから、即戦力と期待して最初はパートの条件で採用した。

同棲相手が出て行ってしまい…
 ところが、それから1年ほど経過した頃、T子より後に採用された、同じく医療事務のA子から、院長に対しT子についての相談があった。いわく、T子は最近ボーっとして何かを考え込んでいることが多く、会計の間違いや書類の記載ミスが目立つ。一緒に仕事をする側としては、とてもやりづらく、自分より先に入った先輩なので注意もできない。院長から注意をしてほしい——。A子は、そう訴えた。

 そういえば、最近、遅刻や当日の急な欠勤が増えていて、何かあるのかと訝しんでいたところだった。院長は、事務長として普段職員たちと接している妻に注意してもらうことにした。T子は夫人に心を開いているようであり、話しやすいだろうと考えたのだ。

 後日、妻がT子を呼び、ミスや遅刻が多いことを指摘し、何か困っていることがあるのかと尋ねたところ、T子はうつむきがちに、時折涙を浮かべながらこう言った。「申し訳ございません。ご迷惑をかけていることは自覚しています。実は、同棲していた人が出て行ってしまい、夜も眠れず、仕事が手に付かないんです」。

 妻は、一見地味なT子から同棲という言葉が発せられたことに驚いたが、「そんなことがあったのね。つらいでしょうけど、できるだけ気分転換をしてみて。とにかく、体調管理には気をつけなさいね」と語りかけた。その日の夜、院長は妻から、T子との面談の内容を聞き、「どうしたものか…」と困惑したが、T子本人も問題を自覚して、何とか頑張ろうとしているようなので、妻の注意を受けて行動がどう変化するか、様子を見ることにした。

精神科クリニックの受診を勧める
 妻との面談から数日後の月曜日、T子は再び、寝坊をしたことによる遅刻の連絡をしてきた。診療開始から30分後、出勤して着替えてきた様子を見ると、数日間入浴していないのか髪の毛はべっとりしていて、体臭がきつい。さらにアルコール臭がする。酒を飲みすぎたせいか、目も充血している。

 これでは、他の職員や患者さんにも迷惑がかかるだろうと、院長はその日の午前の診療終了後にT子を呼び出し、次のように伝えた。「私生活で大変なことがあったと妻から聞いている。だからといって、そのように酒のにおいをさせて、不潔な身なりで受付に立たれても、患者さんに迷惑がかかる。夜眠れないとか食欲がないということであれば、知り合いの精神科クリニックを紹介するから一度かかってみなさい。今日はこれでいいから、午後は帰って、しばらく休みなさい」。

 T子は「申し訳ございません」と言って、帰っていった。後日、紹介した精神科にかかったT子は、そこの医師が記載した診断書を提出し、1カ月ほどの休みを取りたいと申し出てきたので、院長は許可した。T子が抜けた分の業務の穴埋めは、院長夫人の勤務時間を増やすなどして対応した。