——転職活動はどのようにされたのですか。
 留学先のボスも優しい人で「いたいだけいなさい」と言ってくれたのですが、親を日本に置いてきていることと、やはり自分は日本のために働きたいという思いから帰国することにしました。

 僕は移植外科医を続けたかったので、その仕事をさせてくれる病院、できれば僕がボスとなってゼロから移植科を立ち上げさせてくれる病院を探しました。すると、知り合いの先生のツテで、親元にも近いA病院が浮上しました。A病院の院長は同じ大学の出身で、移植の草分け的な存在だった人。良くない噂も聞いてはいましたが、僕は「移植ができるなら、だまされてもいいや」とA病院に入りました。

 しかし、私が想像した以上のひどい罠が仕掛けられていました。着任初日にもらった辞令に、「救急科」と書いてあったんです。「先生、これ間違っていますよ」と院長に言ったら、「いやいや。これからの外科医は手術だけじゃ駄目なんだよ」と言い始めて…。だまされるかもしれないとは思っていましたが、ここまでとは。見事にやられました。

 A病院にはそもそも救急科自体がありませんでした。それまでは慢性期とも急性期とも言えないどっちつかずの状態だったのですが、「急性期の病院にシフトして、経営を何とか改善し採算が合うようになれば院内の人事について発言力が得られるだろう」というのが院長の腹積もりだったようです。そのために一番手っ取り早いのは、救急車をたくさん回してもらって、救急医療をやっていくことだと院長は考えていました。それに見合う医者が欲しかったようです。

 帰国の1年ぐらい前から話を進めて、僕は幾度となく面談でもメールでも聞きました。「自分は移植をやりたいが、早々あるわけじゃない。移植だけで飯が食えるようになるまで、自分にはどんなことが期待されているのか?」と。今から思うと、確かに院長の答えはいつもウヤムヤでした。

——「救急科」の辞令を受け取った後、どうされたのですか。
 救急科をこなしつつ、移植外科を立ち上げましたよ。やるとなったからには前向きにやる主義なので、3年間で救急車の受け入れ台数を月70台から250台まで増やし、救急の専門医も取得しました。移植に関しては、年に1〜2例の腎移植があるぐらいでしたが、内科や泌尿器科、循環器科、栄養士、ソーシャルワーカーとタッグを組み、自分の目指す移植医療に近付けたような気がします。

 A病院に赴任して3年半が過ぎた頃、ある人の紹介でB病院から「移植外科医がいなくて困っている。ぜひうちに来てほしい」という誘いがありました。でも僕は断った。「結果が出なくても、理解されなくても腐らずにここで10年やろうと決めてここに入ったし、僕には移植した患者への責任がある。だから今ここを動けない」と思ったんです。

 そんな僕がB病院へ転職する気になったのは、信頼しているある先生がこう言ってくれたからです。「君は一体、何をやりたいんだ? 『移植がやりたい』と日本に帰ってきたのに、救急をずっとやらされ続けている。自分の力をすべて移植に注げない状況を、他の仕事をやることで目をそらしているんじゃないか。それで満足なのか?」って。僕の心を見透かされたような気がしましたね。

 B病院に移ってから約4年。今は腎移植、腎不全外科全般を担当しています。多くの場合、手術の成功が1つのゴールだと思いますが、腎移植の場合はそこからがスタート。それが難しさであり、やりがいでもあります。

 僕はこれまで自分が選んできた道に後悔はありません。自分がやりたい医療ができないもどかしさは常につきまとうことかもしれませんが、置かれた境遇はとらえ方次第でいくらでも変わる。これからも短期、中長期的な目標を自分の中で定めながらやっていきたいと思います。