派遣先の指導医から「一緒にやらないか」と誘われ、医局を離れることを決意。「腕の立つこの先生についていけば間違いない」と転職を重ねたものの、さしたる成果を上げられないまま激務だけが続いた。そんな毎日にいつしか燃え尽きてしまい…。


杉田公一(仮名)さん
1989年に地方の国立大学を卒業後、出身大学の医局へ。1994年、5年間在籍した医局を離れ、派遣先の関連病院で指導を受けたA医師と一緒にB病院、C病院と渡り歩く。医師になって10年目の1999年、A医師と袂を分ち、都心のオフィス街にあるDクリニックへ転職。2002年からは同クリニックの院長を務める。40歳代、妻と子ども2人の4人暮らし。

——わずか5年で、医局を離れたのですね。

 はい、そうです。これほど早い時期に医局を離れることになったのは、派遣先の関連病院で知り合ったA先生に「一緒にやらないか」と誘われたことがきっかけです。

 A先生は私の指導医で当時45歳くらい。少し変わったところもありましたが、非常に優秀で腕が良く、学会での発表や論文の執筆などにも積極的な先生でした。なぜ私に声をかけてくれたのかは分かりませんが、「この人と仕事をしていれば医師として間違いなく成長できる」と思い、誘いを受けることにしたのです。

 それに職場環境も魅力的でした。A先生は、私と同じ職場だった関連病院から他県のB病院へ移っていたのですが、B病院は都心部にある総合病院で、最先端の医療設備が整い、技術面でも進んでいました。呼吸器内科医としてスキルアップしていく上でこれ以上ない環境です。

 母校は新設されたばかりで、研究体制が万全とは言い難い状況でした。私は博士号を取得したいと考えていたのですが、この状況では医局にいても博士号を取れる見込みは薄いと感じていました。当時、私は29歳。このままいいように使われるだけなら、A先生の下で臨床研究をした方がいいと考えたわけです。

 退局の意思ははじめに講師の先生に伝えました。とても理解がある人で、「確かにこちらは体制ができていないし、そっちの方が刺激もあって、腕が上がるんじゃないか」とすぐに理解を示してくれて、ありがたかったですね。教授や医局長には散々慰留されましたが、最後は「行かせてください」と頭を下げて、何とか許してもらいました。

——それでA先生とB病院で合流したわけですね。

 そうなのですが、B病院には半年しかいませんでした。頼みの綱であるはずのA先生が病院の中で浮いた存在になっていたからです。どうやら同僚の医師と対立してしまったらしく、私が赴任したときには窓際に追いやられている状態でした。A先生は人間的には決して悪い人ではないのですが、頑固で少し融通に欠ける部分があったかもしれません。

 そんな事情もあってA先生はC病院に移ることになり、私もまだA先生に呼吸器内科医として学びたいことがあったので、ついていくことにしました。もっともA先生は、C病院に新設された呼吸器内科の責任者になることが決まっていて、「片腕を連れていきます」と勝手に私のことを話していたみたいですけど。