父親の肺がん発症を機に実家に戻ることを決意。医師紹介会社を利用し転職するも、病院側に条件がきちんと伝わっておらず、わずか半年余りで退職するはめに…。現在は自力で探した診療所で人間ドックを担当。充実した毎日を送る。
——学生時代から人間ドック医を志望していたそうですね。
父は会社員でしたが、母方が古くから続く医師の家系だったので、僕にとって医師は身近な職業でした。子供のときから医師を目指していましたが、「病気を治すのもいいけれど、その前に病気にならないようにはできないのか。できれば病気にならないほうが幸せ」と考えていました。その思いがずっと根本にあったので、大学4年で臨床の勉強が始まったころには、「将来は予防医療をやりたい」と周囲に話していました。そんなことを言っているのは僕ぐらいだったので、周りからは奇異な目で見られましたよ。病気を治すことが医師の仕事で、予防医療はその範ちゅうではないというイメージが強いのでしょう。
ただ人間ドックを専門にやろうにも、大学病院では人間ドックを実施していない。どうしようかと考えた末、放射線科に入局しました。放射線科なら読影が学べるからです。僕は治療方法を覚えるより、予防と診断がやりたかった。診断がきちんとできれば、人間ドックでも使えると思ったんです。
——「いずれ人間ドックをやりたい」という志向は、教授もご存じだったのですか?
はい、僕から話していました。教授は僕の考えを理解し、検診のアルバイトなどをよく紹介してくれました。そんなリベラルな教授だったからこそ、放射線科を選んだというのもあります。そもそも、大学もそうした観点で選びました。大学自体が新しく、歴史が浅いというのがポイントでした。変な“しがらみ”がなくて、自由にやりたいことができるんじゃないかと思ったんです。実際、新しい大学ですから、教授陣はすべて他大学出身者。日本全国から集まってきていて、自由闊達な雰囲気がありましたね。放射線科に2年いて、その後病理学を学ぶため大学院へ進んだときも、教授は快く送り出してくれました。
——そこで予期せぬことが起きるのですね。
大学院生活2年目のとき、父親に肺がんが見つかったのです。なので大学院を休学し、一時実家のあるA県へ戻ることにしました。そこで、インターネットで探した医師紹介会社を利用して、A県にある病院に転職したのですが、これが大失敗でした。
父親は既にそう長くはないという状態だったし、僕自身、結婚して子供もいましたから、「この先ずっとA県にいるつもりはない。それでも構わないという病院を紹介してほしい」と紹介会社のエージェントにお願いしていました。この条件が“虫の良い話”だというのは十分に認識していましたよ。「1年か2年でいなくなるかもしれない人間」を雇うところなんて、普通はありませんよね。それに僕はまだ医師になって4〜5年目で、後期研修医レベル。放射線科で処方も分からないし、非常に使い勝手が悪いわけですから。なので、見つかるかどうか不安に思っていたのですが、それでもエージェントは「大丈夫です。ウチは業界大手ですから信用してください!」と言い切りました。まあ、結局はその言葉を信じて裏切られたわけですが。
数日のうちに、ある病院と話がついて、私は常勤医として働くことになりました。ところが、実際に勤務が始まってみると、院長から「そんなにすぐにこの病院を辞めるつもりなら、あまり重要な仕事はさせられない」って言われたんですよ。びっくりしましたね。「最初からそういう条件だったはずですが…」と私がいくら言っても、「そんな話は聞いていない!」と返され、「言った」「聞いてない」の押し問答になってしまいました。恐らく僕のエージェントが、意図的なのか、単に忘れたのかは分かりませんが、病院側に「1年か2年でいなくなるかもしれない」という私の条件を伝えていなかったんですね。
院長と言い合っていてもらちがあかないので、エージェントにクレームの電話をかけたのですが、この対応がまたいい加減。「担当者から折り返し電話します」という返答だけで、一向に折り返しの電話がかかってこなかった。頭にきて「社長を出せ!!」と怒鳴って、直接トップに事情説明をしたら、一言「分かりました。彼(エージェント)を処分します」だって。その担当者は本当にすぐクビになりました。別に僕はそのエージェントの処分を望んだわけではなく、病院側にきちんと話をして処遇を改善してほしかっただけなんですが…。結局、それが元で、その病院を半年ぐらいで辞めざるを得ませんでした。