あこがれていた研修システムを受けたい一心で出身大学外の医局に入るも、数多くある関連病院でも最果ての勤務先を押し付けられる。半年という期限付き派遣のはずが一向に戻れず、週の半分は当直という激務に外様の悲哀を痛感。両親の体調の悪化を機に一大決心をする。


木村香織(仮名)さん
1990年に私立医大を卒業後、出身大学外の内科医局に入る。大学病院などを経て、“最果て”の関連病院へ。半年だけのはずが、9年にわたる勤務に。その間、主に糖尿病の治療に注力するも、激務に加え、両親の体調の悪化が重なり退職を決意。現在は医局から離れ、産業医に転身。大手企業で従業員5000人の健康を預かる。40代、両親と3人暮らし。

——出身大学外の医局へ入ったのは、なぜですか。
 私が大学を卒業する頃は、母校の医局へ入るのが当然という風潮でしたが、私は誰しもがあこがれるA大学の入局試験を受けました。どうしてもA大学に行きたかったので、試験に合格した時は本当にうれしかったです。

 入局してみると、メンバーは50人ほどでしたが、A大学出身者が8割、その他の大学出身者が2割。外から来た私から見ると、A大学出身者は頭がよく、世知に長けた人が多いという印象で、どの人ものし上がっていくためのたくましさを持っているようでした。

 そして、キャリアを積んでいくと分かったのですが、A大学出身者とそれ以外には歴然とした待遇の差がありました。研究費も外様だとなかなか融通してくれなかったり、研究の対象になりそうな患者を紹介してもらえなかったり…。それでも大学病院にいる間はよかったのですが、医局人事で「自分が外様である」ことをまざまざと思い知らされました。

 関連病院と大学病院で8年間勤務した後、教授から異動を言い渡された先はB県のC病院。そこはA大学傘下の関連病院の中でも最果ての場所でした。それまで女性の医師で遠方の関連病院へ派遣された人はいませんでしたから、本当に驚きました。

 他大学出身者といっても、「お父さんがA大学出身」とか「おじさんがA大学の教授」という人も多く、何のコネも後ろ盾もないのは、実は私ぐらい。それが影響したのかは分かりませんが、「誰も行きたがらない辺ぴな病院には、あの外様をあてがっておけばいい」、恐らくそんな考えだったのでしょう。

 当時は、糖尿病が社会的にも注目され始め、予防の必要性が強くいわれ出した頃。B県では糖尿病の治療が遅れているため、どうしても専門の医師が欲しいというのがC病院の要望でした。その領域にはA大学からの派遣実績がなく、もし私が行くことになれば、その第1号になるわけです。まだまだ経験が十分ではない私は、不安でいっぱいでした。

 関連病院ならいくらでもあるのに、なぜ私だけが縁もゆかりもない場所に行かなければならないのか。ちょうど母の具合が悪かったこともあって、「母の面倒をみられるのは一人娘である私しかいないから、こちらに留まりたい」と私は抵抗しました。

 教授はやさしい声で「先生、C病院に行ってください。半年だけですから」と言うばかり。それでも首を縦に振らなかったら、今度は、教授の心証を良くしたい人たちから圧力がかかりました。夜中でも構わず電話をかけてきて、「これは上からの命令であり通達です。通達ですから、先生には行きたいとか行きたくないとか言う権利はありません。先方は一日も早くと言っていますから、手続きを早く進めてください」って。まるで脅迫でした。