——結局、その病院へは行ったのですか。
行きました。C病院は困っているみたいだし、まあ半年ならいいかと。「ここで我慢すれば半年後には良い話をくれるかも」という期待がありました。
C病院での勤務は慣れるまで大変でしたが、ほのぼのとした雰囲気でいい人たちが多く、仕事はやりやすかったです。あっという間に約束の半年が迫ってきましたが、教授からは何の連絡もない。そこで私は教授に手紙を書いてみたのですが、返事はありませんでした。
実はC病院の院長と教授は同級生で旧友。幸か不幸か、院長が「木村はよくやってくれている。出してくれてありがとう」と教授に話していたようで…。院長が評価してくださったのはとてもうれしいけれど、ますますC病院から離れられなくなったんです。
在籍期間も長くなり、近隣の病院とネットワークを築いて、県内の糖尿病患者のみならず、開業医の意識を向上させようという取り組みを始めるなど、仕事上でのやりがいはありました。ただいつも心のどこかで、「私はいつまでここにいるの? ここで骨を埋めるわけにはいかない」と思っていたような気がします。
さてこの時、当の医局では教授戦の真っ最中で、揉めに揉めている状態だったのです。私を含めた関連病院に派遣されている医局員は、完全にほったらかしになっていました。それでも「いつかは帰れるだろう」と思い、転職なんて真剣に考えたことがなかったのですが、あることを機に医局を離れる決心をしました。
1つは激務が続いたことです。ある大学がC病院から医局員を全員引き揚げてしまい、内科の医師がそれまでの3分の1まで減ってしまったんです。気付くと、週の半分は当直に入る生活が1年以上に及び、こんな生活をいつまで続けられるんだろうと、ぼんやりとした頭で思っていました。
そして、もう1つ私の背中を押したのは、両親の体調の悪化です。「とにもかくにも今すぐ戻らなきゃ」と思ったんです。
——転職活動はどのようにされたのですか。
「他の病院に移らせてほしい」とか新たな勤務先を医局に相談する気はさらさらありませんでした。私を最果ての病院へ追いやり、長い間、放置してきた人たちです。何らかのメリットがなければ私のために動いてくれるはずがありません。誰1人信用できなかったし、反対に何をされるか分からないと思い、自力で転職先を探しました。
糖尿病と内科の専門医ということで働く口は多いと思いましたが、数多くの糖尿病患者を診る中で予防の大切さを感じていたので、健康な人たちに直接アプローチできる産業医になろうと決めました。
転職情報サイトで「産業医」という検索ワードを入れて出てきたのが、今の勤務先です。今から5年前、エージェントを通じて応募したのですが、書類選考の他、10回以上の面接の末、100人の応募者の中から私が選ばれました。応募から内定までに4カ月もかかりました。応募要件は産業医の資格があることのみ。資格があるとはいえ、産業医としては働いたことのない私をよく採用してくれたなと思います。変に医局のカラ—に染まっていなかったのが良かったのかもしれません。