——そこでの勤務はいかがでしたか?
 その企業系病院は300床程度の規模なのに、事務職員が100人以上もいるようなところでした。事務職員の大半は、母体企業からの出向や転籍組で、40〜50代の管理職も多くいました。私が所属していたのは健診センターで、そんな社員たちの愚痴を聞くのも仕事のうちでした。一方で、母親にも相変わらず振り回され、職場でも自宅でもストレスがたまっていきました。

 健診センターの医師は事実上、私1人でした。この病院では、院長をはじめ、主要な役職は軒並みB大学の出身者で占められていました。半年ほど勤めた頃でしょうか、突然病院長に呼び出され、「次の医師が来る。君には来月辞めてもらう」と通告されたのです。後に、懇意にしていた事務職員から聞いたところでは、B大学が医師を派遣していた別の企業系病院から、年配の医師を数名引き上げることになり、そのうちの1人が健診センター部門に勤務することになったとのことでした。

 3カ月ほど勤めた頃から分かってはいたのですが、私はB大学出身の医師が体調不良で休職した穴埋めに派遣されたようでした。いわば“捨て駒”の扱いです。いずれ退職することになるとは思っていましたが、母校の医局にはそうした事情は知らされなかったのか、またトラブルということで私はとうとう破門されてしまいました。

——その後はどうされたのですか?
 3年ほどは、知人からの紹介で、救急車が来ない病院での当直や、健診のアルバイトなどをして生計を立てていましたが、その間に母親が他界したので、本格的に転職先を探すことにしました。初めの転職先は、親友の恩師にあたる先生から紹介された、地方の療養型病院でした。週末の当直をメーンに週40時間勤務という条件で、ここには4年ほど勤めました。

 しかしこの病院は、当時の小泉純一郎政権が打ち出した医療制度改革法案が可決された後、療養病床削減の施策のあおりを受けて経営難に陥りました。ボーナスが出なくなり、地元大学の医局に属しているパート医師は全て引き上げ、看護師も次々に退職しました。病院からは「給料は2倍出すから、全患者の主治医になってくれ」と言われましたが、それが無理なことは目に見えていたので断りました。その病院は、私の退職後半年足らずで、売りに出されたようです。

 次の転職先は、全国医師連盟に所属する知人のアドバイスを受け、医師紹介会社を利用して見つけました。ここも療養型病院でしたが、債務超過に陥っており、銀行から事務局長を迎えていました。オーナーである理事長よりも、銀行から来た事務局長のほうに権限があり、多くの職員は事務局長の言いなりでした。事務局長は、私より10歳以上年上でしたが、そのせいか、私のことを「先生」とは呼ばず、「君」付けで呼んでいました。後にも先にもそんな経験をしたのはここだけです。

 配属された病棟は「発熱病棟」というあだ名が付くほどトラブルが多く、看護体制に問題があるようでした。私は2カ月ほど様子をみてから、問題点を分析して看護部長に進言しました。それが看護師長の不興を買ったようで、事務局長から病棟を替わるよう指示されました。それ自体は私としても歓迎だったのですが、その直後、またもや体調を崩してしまいました。大学時代の友人の診察を受けたところ、内分泌・代謝系の特定疾患と診断され、入院を余儀なくされました。退院後まもなく、病院側と復職について話し合う場は一切無いまま、解雇通告を突きつけられました。そこで、地元の労働組合の支援をあおぎ、金銭面でも先方の言いなりになることなく、退職の形に持ち込みました。