認知症の患者さんの中には、妄想や幻視・幻聴といった精神症状が出てくる人がいます。そうした症状を軽減するための薬はありますが、話を聞くことで安定する場合も少なくありません。訴えをよく聞いて、それは違うと否定せずに、他の話をして気をそらすんですね。周囲が受容の態度で受け入れると、患者さんは安心して状態が安定するようです。

 「眠れない」「痛みがある」といった体の不調を訴える人も、よくよく話を聞いていると、精神的な問題だと分かることがあります。そんな時には、小さな白いタブレットの形をした偽薬を「この薬はよく効きますよ」と言って渡すと、プラセボ効果で「よく眠れた」「治った」という人もいますね。

 患者さんとの意思疎通には「言葉」も大切です。難しい専門用語は理解してもらえないので、知識のない患者さんでも分かるように話す必要があります。

 また逆に、患者さんの話す言葉も理解しなければいけません。私が勤務する老健施設の入所者は、その地方特有の方言を話します。例えば、「からすげぇりを起こして痛くてしょうがねぇ」と言われて、最初は何のことだか分からなかったのですが、よく話を聞いてみると、それは「こむら返り」のことでした。ほかにも「かやい(かゆい)」「おおごと(つらい、大変)」「やけっつり(やけど)」「せんごっぽね(背骨)」などたくさんの方言があり、中には標準語では表現できないニュアンスを含むものもあるので、患者さんと接する中で、自分も覚えて話すようになりました。

 方言を話す方が、患者さんも親しみを覚えるようで、同じ言葉・目線でゆっくり時間をかけて話すと、それまで聞いたことのなかったような悩みを打ち明けてくれるようになりました。老健施設の現場では、医学英語やドイツ語を知っているよりも、その土地の言葉を理解していることの方がはるかに役立ちます。

——定年退職後の再就職についてどう思われますか。

 臨床経験のなかった私に、退職後も働く場を与えてもらって感謝しています。老健施設には、私と同じように臨床経験のない元大学教授や、臨床経験はあっても退職後はペースを落として働きたいという医師も結構いるようです。近年は介護施設が増えて医師の需要も高まっているようで、勤務先に他の施設から誘いの電話がかかってくることもあります。興味のある人は選択肢の1つとして、検討してみるといいでしょう。

 私自身は、老健施設での勤務に満足しています。収入は減りましたが、年金もありますし、大学勤務時代より出費も減っているので不足はありません。週3日勤務になったことで、趣味の川柳や随筆、旅行を楽しむ時間ができました。

何より、老健施設での仕事は、自分の人格形成に役立っています。ここでは、博士号を持っている、大学教授だったなどといったことは、何の意味もありません。患者さんに信頼され、尊敬されるためには、自身の人間性を高めなければならないと痛感しています。今後も医学だけでなく幅広い教養とユーモアを身に付け、成長し続けたいと思っています。