若気の至りで他大学の医局へ転籍。転籍後も、新医師臨床研修制度のあおりを受けて、2度目の退局。医師紹介会社を利用して転職した現在の勤務先では、通信制大学院で学んだり、趣味のジャズバンドで活動したりと、充実した生活を送っている。


北村大吾さん(仮名)
A大学大学院で医学博士号を取得し、母校の整形外科医局へ入局。厚生連病院で2年間働いた後、自分の希望する病院への転職を申し出たところ、教授の反対に遭い退局。B大学の医局へ転籍後、市立病院などに十数年間勤務。救急病院で部長に就任するはずだった矢先、新医師臨床研修制度にともないB大医局が医師を引き上げることに。穴埋めとしてC大学の医局が参入したことで居づらくなり、現在のリハビリテーション病院へ転職。50代、妻と子供2人の4人暮らし。

——医局を2度、お辞めになっているそうですね。その経緯を教えてください。
 母校A大学の医局を辞めたのは、若気の至りとしか言いようがありません…。私は学生時代、モダンジャズ研究会でサックスを吹いていました。ある時、整形外科医としてもジャズプレーヤーとしても尊敬していたある医師がいる病院から、「整形外科医兼病院バンドのプレーヤーとして来ないか?」と誘われまして。

 その病院の整形外科は、若手の整形外科医が全国から研修に訪れるほど人気がありました。また、院長のジャズの腕前はプロ級でしたし、病院バンドのメンバーもセミプロ級ばかり。医療もジャズも勉強できる環境が、とても魅力的に思えました。

 そこで、A大学医局の教授に「転職したい」と告げたところ、激怒されてしまいました。その時は医局を辞めることまでは考えていなかったのですが、頭ごなしに反対されたことがショックで私も腹を立ててしまい、その勢いで医局を辞めてしまったのです。しかも、いざ転職を現実的に考えてみると、誘われた病院は離れた地域にあり、だんだんと知らない土地に移り住むことに不安を感じるようになってしまい、結局転職にも踏み切れませんでした。今考えても、ほんとうに馬鹿なことをしたものだと後悔しています。

 その後、A大学の医局とも交流のあったB大学の医局を、知人が紹介してくれました。ちょうどその前年に、B大学の助教授のセミナーを受講していて、その先生の下で勉強してみたいと思ったこともあり、B大学の医局に転籍することにしました。

 B大学の医局では十数年ほど医局人事に従って、市立病院や救急病院に勤務しました。救急病院にて順調に勤務をこなしていたある時、部長を務めていた先輩医師が開業を理由に辞めることになったため、私が後任になる予定でした。ところが、新医師臨床研修制度の導入のタイミングと重なり、B大学の医局が若手医師を引き揚げてしまったのです。そうなると、私1人では当然回らなくなるため、病院側はC大学の医局に応援を依頼し、部長のポストにはC大学の医師が就きました。

 新部長は自分よりも年下で、手術のやり方も全く違う人でした。穏やかな人だったので衝突こそありませんでしたが、承服しかねることも多々あり、協力してやっていくのは難しいだろうと感じて、転職活動を始めました。