医局から派遣され10年間勤めた病院で、破綻寸前の夜間救急診療体制が放置されていることに疑問を覚え、辞職を決意。医局からは、40代になったら自分の面倒は自分で見るよう言い渡され、結局、自力で転職することに。医師紹介会社を利用し、地方の療養型病院の院長として単身赴任。医療にも経営にも疎い理事長の下で4年間奮闘した後、認知症専門病院に転職した。


神田遼(仮名)さん
 地方大学の医学部を卒業後、研修を経て大学院へ。医局人事で幾つかの病院に小児外科医として勤務。最後の派遣先の市中病院では10年間、小児科部長を務めた。その後医局から離れ、地方の療養型病院へ単身赴任。院長として4年間勤務した後、認知症専門病院へ転職。50代、妻と子の3人暮らし。

——最初に転職を決意したきっかけは?
 医局の指示で最後に派遣されたのは厚生連の病院で、そこには10年ほど勤務しました。肩書きは小児科部長でしたが、小児科と小児外科の兼務でした。加えて、その地域では、小児科の夜間診療の人手不足が深刻だったので、地元医師会からの依頼で、最低週2日は夜間救急に対応していました。救急で成人の外科を診ることもありました。

 近隣には大学病院クラスの総合病院も幾つかありましたが、どういうわけか救急車のほとんどがその病院に回ってくるんです。搬送されてくる患者は極力受け入れ、当直もこなしているうちに、「週に3日帰宅できればマシ」という状態になりました。10年の間に、経営者は2度ほど交代しましたが、救急医療に対する理解も、支援の考えもない人ばかりでした。

 病院として何ら手を打たないでいるうち、患者の受け入れ数はさらに増えていきました。それでも仕方なく対応していましたが、小児に対応する医師は私1人。その重責に、次第にストレスがたまっていきました。

 当時の私は、常に神経が高ぶった状態でした。周囲のちょっとしたミスも許せず、怒りっぽくなり、家族とも衝突するようになってしまいました。若い医師が結婚するときに、上司がよく「離婚話が出て初めて一人前の医師だ」などとスピーチをすることがありますが、冗談ではなく、「このままいけば本当に家庭崩壊になりかねない。そろそろ年齢に見合った落ち着いた働き方をしよう」と考えたのが、転職を決意したきっかけですね。

 医局に意思を伝えたところ、「40代になったら勤務先は自分で探せ」と言われまして。「昔の医局なら最後まで面倒を見てもらえたのに冷たいな」と思いつつも、確かにもういい年でもありましたし、自分で転職先を探すことにしました。籍は医局に残したままになっています。

——転職先はどのように探したのでしょう
 インターネットで検索して見つけた医師紹介会社を利用しました。もう長いこと、小児医療や救急医療をやってきて、他の仕事に適応できるかどうか分からなかったので、リハビリを兼ねて、退職前から勤務するつもりで、非常勤の仕事を幾つか紹介してもらいました。今でこそ医師紹介会社は雨後のたけのこのように存在しますが、もう、10年ほども前のことですから、それほど数はありませんでした。また、紹介会社名で選ぶというよりは、紹介される病院次第で選んでいましたね。

 勤務先を決める際には、紹介会社のコンサルタントや病院の経営陣と面談したり、その病院を訪問したりしました。しかし、書類上の条件は良くても、スタッフの質や設備、バックアップ体制といった、働く上で重要な要素については、実際に働いてみるまで分からないことがほとんどでした。勤務してから「失敗した」と後悔することも多く、転職先を決めるたびに、不安を覚えました。ただあるとき、知人が多く勤める大学と同じ地域にある療養型病院を紹介され、「これは縁があるかもしれない」と思い、単身赴任することを決心しました。

——勤務状況はいかがでしたか?
 前職の年収は1800万円。転職先は2000万円と収入はアップしました。また、単身赴任ではありましたが、週末は家族の元に帰れたので、生活面では安定しました。しかし、勤務が始まるとすぐ、「この転職は失敗だった」と後悔することになりました。