—転職を考えたのもそれがきっかけ?

 妻の言葉は一つのきっかけにはなりましたが、私は私で自分の将来を考えていた時期でした。40歳を過ぎると、医局の中である程度落ち着きどころが見えてくる。コースとしては、(1)大学に残る(研究して教授を目指す)、(2)関連病院での勤務を続けるために部長のポストを目指す、(3)のんびりと医局にぶら下がって過ごす、(4)故郷に戻って開業する—の大きく4つです。

 私は、臨床外科医として、専門医や指導医の認定も取得していましたし、研究畑に戻る気はなかった。のんびりと医局にぶら下がる気もなかったし、開業も考えていなかった。そうなると残るのは、関連病院の部長クラスに落ち着いて、外科医として活躍する道です。しかし、その道はそう簡単ではありません。人事権はしばしば、医局に貢献した人への論功行賞として用いられます。私より、医局に貢献した人にいいポストが回るのは、ある程度やむを得ません。

 そこで、教授に掛け合いました。あまりにもあちこち異動させられるので、「私はいらない人材ですか?」と面と向かって聞いたのです。すると、教授には「決してそうではない。しかし、すべての人が満足する人事ができるわけではない。それぐらい君にも分かるだろう」と言われました。それを聞いた瞬間、教授には失礼な質問をしたなと後悔しました。「大切でない医局員がいるわけがない」。その言葉が真実であると思えるほど人望の厚い先生だったからです。

 しかしながら、山間部の寒い地域の中核病院から逃れられないのが「自分の医局でのポジション」であり、それが自分の実力だとその面接の時に理解したのです。

山間部の寒い地域の病院から逃れられないのが自分のポジション

—それで、医局を離れて自力で道を開こうと考えたわけですね。

 ええ。3年単位での異動は大変だということを理由に、医局人事から外してもらいました。教授は、「帰りたくなったら帰ってこいよ」と言ってくれて、円満に自由を手に入れることができました。

 でも、地元では医局人事が根を張っていて、いい病院の求人がなかった。私は、まだ外科医としての腕を磨きたいという思いがあり、手術症例数が多い病院を探していましたので、そうなるとなかなか難しいのです。そこで兵庫県、大阪府を中心に、外科医として働ける病院を探しました。