医局人事を離れての「転職」は、多くの医師にとって未知の世界。時に思いもかけないことが起こる。医局に所属するごく普通の外科医だった新藤太郎(仮名)さんは、3年間でなんと4回も転職することに。だが、その間に年収は約1000万円増えて、2300万円になっていた…。新藤さんに「脱医局」に始まった波乱万丈の3年間を語ってもらった。



新藤太郎(仮名)さん
1988年に中国地方の某国立大学を卒業。医局からの派遣で、県内関連病院勤務を経て2005年4月に医局を辞す。その後、3年間で4回の転職を繰り返し、現在は透析クリニックの管理医師として勤務。日本外科学会認定医・外科専門医・指導医/日本消化器外科学会認定医・専門医/乳腺マンモグラフィー読影認定医。

—医局を離れるまでは、どのような経歴だったのですか?

 瀬戸内海の島の出身で、高校は中国地方の都市部の進学校へ進み、国立大学医学部へ入りました。学生時代は、ボート部で体力作りに励み、特に深い考えもなく、1988年に当時、ボート部の部長が教授だった第二外科へ入局しました。その後、研修医を経て、いくつかの関連病院を回り、大学に戻り学位を取得。その後は、また関連病院を回りました。

 あのころは、忙しかったですね。何日も病院に泊まり込んで、医局のソファで寝る毎日。でも外科医は忙しいのが当たり前と思っていたので、特につらいとは感じませんでした。その間に、日本外科学会の認定医、外科専門医、指導医、日本消化器外科学会認定医と専門医、さらに乳腺マンモグラフィー読影認定医を取得し、論文を書いたり学会で発表したりと、自分でも精力的に仕事をしていたと思います。

 山間部の病院にも文句を言わずに行きました。しかし、40歳を前にして妻の反乱に遭ったのです。

40歳を前に妻が反乱

—どのようなことがあったのですか。

 「私は10年間、あなたについてきました」と、いきなり過去形で話を切り出され、「もうこれ以上、ついていくのは嫌だ」と言われました。でも、妻の言い分ももっともです。長くて3年、短いときには半年ぐらいであちこちに移る生活が続いたわけですから。子供が小さいうちはまだいいのですが、学校を転校させなくてはならなくなる。そんな生活は誰だって嫌でしょう。その後、家を落ち着けて、勤務先が遠ければ、単身赴任するようになりました。